多段RTとトラックバック文化圏

えーっと、こんな話がトゥギャッター界隈で話題になっている(あくまで僕の中で)みたいですが、この話のことを考えていたら、ふとトラックバック文化圏の話を思い出した。
トラックバック文化圏については、リンク先を参照していただくとして、僕の感じたことをちょっとまとめておこうと思う。
まず、RT(retweet)とは、基本的に言葉の引用だということだ。引用というのは、基本的に引用元の内容を変更してはいけないというのが、常識的に使い方だと思う。
故に公式RTは、元のツイートの内容を一切変えることができない仕様になっている。それはとても常識的な判断だと思うわけだ。
しかし、非公式RTは、元の発言を自由に変更することができる。発言の内容どころか発言者も変えてしまうことが出来る。
もうこうなると、引用の範疇を離れ、ただの迷惑な仕組みでしかない。
そういえば、だいぶ前に改変RTで発言の内容が捏造される話を、トゥギャッターで見かけた(多分これかなぁ?)し、他のBlogなどでもとりざたされているわけだけれど、それでも非公式RTをしたくなる状況もないわけではないと思う。
例えば、元の発言について、自分の感想を併記したい場合なら、自分の感想と元の発言内容を併記したりしたいだろう。
でも、それなら他にもやり方がある。
例えば元発言のURLを併記する方法。それなら元発言の内容の同一性は確保されるはずだ(つまり捏造されることはない)。
また、発言の順もポスト時間を参照すれば把握できるし、発言者も捏造されることはない。
@の後ろが削られて、全く無関係のアカウントに迷惑を掛けることもない。
おそらく、パソコンでTwitterを楽しむのであれば、多分それが一番いいのではないかと思う。
ただ、ケータイやスマートフォンの類でTwitterを利用する場合、なかなかそういうわけにもいかない。
その場合は、やはり、元発言や発言者に配慮して、内容が変わってしまわないようにRTしなければならないと思う。

閑話休題
この件で、どうしてトラックバックの話を思い出したかというと、どちらもコミュニケーションの仕様として存在しているのに、使い方によってはコミュニケーションを混乱させてしまうものだからだ。
トラックバックの場合、本来なら「言及すること」が条件なんだけれど、仕様としてそれが組み込めていないがゆえに、使い方は個人の規範に任される。
Blogを始める人が増え、いい加減なハウツー本が増えれば増えるほど、「トラックバック」という仕組みばかりが取り上げられ、使いどきや使い方についての説明が置いてきぼりになってしまった。
結果、自分の儲けのためにトラックバックを飛ばす人や、自分の興味のある話だというだけでトラックバックを飛ばす人が出てきた。
トラックバックにたいして、感謝のトラックバックを返す人も出てきた。
あと、やたらコメントにあいさつを残すというローカルルールや「応援ポチ」とか……。よくわからないものも出てきた。
古参のブロガーがその状況を不思議がり、嫌がり、勘弁してくれとエントリーを書いたりもして、あの記事が書かれたんじゃなかったかと思う。

RTも仕組みだけが先にあって、使い方や使いどきを知る術が少なかったが為に、こういった問題が出てきたんじゃないかって思うわけです。
一応、公式の解説を見てみると……。

リツイート(ReTweet/RT)とは
retweet の略で、Aさんが発言した面白い情報を、文頭に「RTという文字」と「@Aさん」を入れて再投稿すること。ブログやSNSの日記で他の人の記事を引用して紹介することに近い。Aさんからすれば自分の発言が誰にRTされた=面白がってもらえたかがわかるので、その発言を軸に人とつながることができる。他人の発言をretweetする際に、自分なりのコメントを添えてretweetする場合はRTと区別してQT(Quote tweet)という記号を使うユーザーもいる。

※ボールドは引用者

こちらでも「引用みたいなこと」って紹介されていますね。
引用であるなら、元の内容や発言者が誰かということは保証されるべきだとは思いませんか?
だったら、そう出来るように考えて使うべきだと思うわけです。

で、この件のまとめを見ていて驚いたのは、「アカウントが短いことが良くない」とか、「クライアントで対応すべき」とか、よくわからないことを言っている人が多いこと。
アカウントを設定するために、そんな危険が予想できたか?
予想できたなら、その意見も一理あるんだろうけど、そうでないなら寝言でしかないでしょ。
クライアントの責任にするのもおかしい。
有償無償にかかわらず、使いにくいなら使わなきゃいいだけのこと。選択肢はいくらでもある。
それに、すべての要望に応えなきゃいけないなんて話になると、こんな話にまで対応しなきゃいけないことになる。
それって、作った人の負担にしかならない。それでいいものなんて作れるはずないんですよね。

まあ、色々書いたけど、結局のところ「人に迷惑がかかるなら、その使い方は正しくない」ってことだと思う。
もっと言うと、「他人のせいや道具のせいにしない」ことも大切なのだと思う。
これを機会に、自分の使い方について考えてみるいい機会なのかもしれないなぁ……。