一番痛いのは自分だもんな

「他人の痛みが分かる人になりなさい」なんて言葉を聞くと、色々複雑な気持ちになる。
他人の痛みがわかることと、それを尊重できるかどうかというのは、必ずしも同時に成り立つわけじゃないし、時と場合に応じて使い分けられるということだ。

だから、「他人の痛みが分かる人」というのが優しい人だとか、思いやりのある人である保証は全くないわけで。
そもそも、他人の痛みなんて、所詮は他人の感覚でしか無いのだから、同じ痛みを心の中でシミュレートしても、正確に再現されるわけではないので、それを知ろうとするのは、とても難しいというか、負けの決まった試合みたいなものだと思う。

でも、それでも、「痛い」ということを口にしてしまうのが人間なんだろうなぁって思う。
解ってもらえるわけはないんだけど、解って欲しいんだろうなぁって思う。
そういう場所は必要だし、そう言える場所は大切にしたいと、時々思うわけで……。

時々見かけるのは、「俺の方が痛い」「私の方が痛い」「あの人のほうが辛いに決まっている」なんていう、いかにも客観的に見えるその人の主観的なセリフだ。
「客観的に見える主観的なセリフ」というのは、非常にややこしい上に認識しにくいものだとは思うんだけれど、それは誰しも時々口にしてしまうものだと思う。
でも、それを他人に認めさせようとしたところで、「じゃあ、それを認識した上で、俺のこの痛みは誰かが軽くしてくれるのか? 誰かが解消してくれるのか?」という反感が頭をもたげてくる。

「俺の方が痛いよ!」
「あ、そうかもしれないね。……で?」
「だから、お前の痛みなんて大したものじゃないんだよ!」
「そりゃあ、痛いのはキミじゃなくてボクだもんね」

そりゃあそうだ。誰もあなたにはなれないのだから、あなたの痛みより自分の痛みのほうがリアルで深刻だ。
それを客観的に測定する術など、誰ももっていないのだから。
個人的には、比較することの方が、無意味なんじゃないかと思う。

「痛い」「苦しい」「悲しい」……。
そういうことは、好きにいわせてあげて欲しい。
言って気がすむのであれば、SNSでもツイッターでもどこでも好きにいわせてあげればいい。
それを「〇〇の方が悲惨」なんて、客観的に比較のできない事象を持ち出して封殺するのなら、せめてその人の痛みをなんとかしてやって欲しいもんだ。

ま、こんな日記だって、僕が書きたくなったから書いてるだけで、別に誰かのために書いたわけじゃないし……。